すべての山に登れ 戦闘系ワーママのWLB日記(側弯症の子と家族と仕事と私)

パワハラやマタハラなんて概念もない時代から、妊娠・出産・育児(現在進行形)を何とか乗り切って生きてきた、周回遅れのオバサン管理職。
子育てもひと段落し、ほっとしたところで判明した、子どもの病気=特発性脊柱側弯症。
病気の進行&手術&看病そして成長の記録や、「子育て」+「子どもの病気&看病」を中心に「そんな状況でまだ働くの?」という邪気のない問いにより気づかされた「WLB」という名の無間地獄まで、幅広く繰り広げられる各方面との戦いの日々を、思いつくままに書いていきます。

姫、座敷に引きこもる(装具を精神的に受け入れるまで)

さて、そんなこんなで装具が完成。「装具を23時間着ける生活」が順調にスタートするかに思えました。


どんな装具をつけるかは、患者さんの症状に合わせ主治医が判断するわけですが、
長女の場合は胴体部分を細やかに矯正するものでした。


装着手順としては、
① 臀部からウエストまでをプラスチックの型で覆い、革製ベルトでぎゅんぎゅんに固定
② わきの下で胴体を2センチ弱の金属で囲い、背中の首下部のところで金属を固定
③ ちなみに①と②は、同じく金属製の柱(正面1本、背面2本)でしっかりつないで固定してある
④ ③の柱に、側弯の進んでいる左腰部と右肩甲骨部分を分厚いフエルト&革製のパッドを、同じく革製ベルトでつなぐ(ちなみに牛革)
⑤ ④のパッドを、正しい位置(=側弯の進んでいる部分)にあて、正面の金属についた留め具に牛革ベルトでぎゅんぎゅんに固定


以上で装着完了です。とにかく「ぎゅんぎゅん」がポイントです。猛烈にねじれようとする背骨たちを、力で抑え込むわけですから。


病院で義肢装具士さんに教えていただきながら親がつけ方を覚えるわけですが、あまりにむつかしかったので覚えきれず、写真撮りまくりました。


装具を着けるのに大変なのは「ぎゅんぎゅんに固定すること」。
これが大人でもかなり力のいる作業です。
まず本人に踏ん張ってもらい、正確な位置でプラスチック部分を固定。その後パッドを正確に当て、とにかく思い切り引っ張って金属の柱に固定。
もう手が痛いのなんの。踏ん張る本人も大変なはず。これを毎日…と思うと、気が遠くなりました。


とにかく肌着の上から装具を着け、装具生活のために娘たちとあれこれ買いそろえた、大き目サイズのパンツと、ゆったりしたパーカーを着て帰宅。


帰宅後、長女は早速姿見で自分の容姿をチェック。
とても長い時間、鏡の前でチェック。
とにかく無言でチェック。


…そして自室に引きこもりました。


引きこもりの理由は「思った以上に背中や胸の出っ張りが大きかったこと」
専門外来に来ている同じ病気の患者さんは、確かに長女まで体の前後が膨らんではいなかった。丁度流行りのレイヤードスタイルやモモンガ服、ストリートダンス系の装束など、それぞれの好みに応じて「装具を着こなしていた」長女自身もそのイメージでいて、自分好みの服を買い足していたので、どんなにパーカーやレイヤードで隠しても明らかに「普通でない」「異形」とわかる自分の姿がショックだったようです。


心配して様子を見に来た爺&婆に会うことを拒否。
外出も拒否。

塾も習い事も、買い物も拒否。
友人と会うことも拒否。
妹との接触もできる限り拒否。

親との会話がAI並みになる。


装具に「ポチ」と命名し、ポチの家まで作った長女(得意科目は技術家庭科)。
装具治療そのものは一生懸命に取り組んでいました。自分の将来のため自分で決めた事を
簡単に投げ出すタイプではありません。


ただ、彼女にとって予想外に深刻なダメージだったのは「装具をつけた自分の醜さ」
そして「とにかくこの姿を見られたくない」という思いでした。
長女の性格上、「泣きわめく」とか「物をガチャガチャ壊す」というわかりやすいエピソードはなかったのですが、「引きこもる」「親しい人に会うことも拒否する」ということは、かなりつらい思いをしていたと想像できます。


学校はすでに夏休み。屋外での拘束時間は短い。自由に時間が使える。


私は決断しました。
「ポチは家の中だけでいいよ。先生も23時間が無理なら、なるべく長い時間つけるようにしよう、といっていたし」

長女の精神的ダメージを見かね、相談なしで勝手に決めたことについては主治医に叱られる覚悟で、次の診察の時、きちんと相談しようということにしたのです。

…やっと、長女の顔が普通になりました。会話のやり取りも、普通になりました。


その後長女は、だんだんとポチとの生活に慣れ、妹や爺&婆には姿を見せることができるようになりました。
ポチつきの外出は無理でしたが、ポチを外すことは自分でも苦労すればできたので、習い事など必要最低限の社会生活は綱渡りで送りました。


この状態の長女を次女と2人で留守番させて仕事に行くのは本当にきつかったですが、
主治医の診察までが近かったので、それまでなんとか乗り切ろうと決意しました。
きっと彼女の生活の質と治療とのバランスを、主治医は一緒に考えてくれるから。


丈夫な体に産んであげられなくてごめん。
こんなになるまで放っておいてごめん。


私自身、このころが一番、泣いていました。ひたすら心の中で謝り続けました。
謝っても泣いても、病気が治るわけではないのですが。